アキレスと亀

本編が始まって10分くらいで「ああ、これはいかんなあ。最後まで観たら落ち込むなあ」と確信を持てたのだが、それでも勝手に自分の人生を重ねてしまったりして、案の定、最後まで観てひどく落ち込んだ。こういうの観て落ち込めるだけ、まだ若いとも言えるのだけど、うん。

人間は若いある時期、何者でもない自分に薄々気づき始め、大体それと同じ頃に将来を考えさせられる。まぁ、現在の日本なら高校生辺りだろう。中学生ではまだ自分の無力さを計れないし、学歴だとか権威が持つそれなりの効力と使い道を知らなすぎる。

そういった、小さくとも初めて現実感を持ってやってくる壁にぶち当たったとき、「僕にはこれしか無いわあ」って思えるものを下手に持っていると、人間は芸術とかそんなのに目覚めてしまう。幼いうちに両親を失った真知寿(まちす)は、ただそのタイミングがものすごい早かっただけ。「真知寿くんは絵の才能があるなあ」って、ある意味では無責任な大人の言葉しか彼の中には残っていなかった。一度でも筆を握ってしまった人には、その後の真知寿の人生が容易に想像できるだろう。

当然のごとく売れない画家となっていく真知寿。途中、幸子という理解者を得て、描くことは夫婦二人のライフワークとなる。この映画には『夫婦愛』の売り文句が付いているが、幸子をアキレス、真知寿を亀として帰結させたストーリーは、一般ウケを意識した北野監督の配慮だろう。本作はあくまで一人の芸術家を描く作品であり、独りで歩く亀の後ろをずーーーっと勝手に付いてくる人間がいたに過ぎない。

奇抜な技法に有名作家のパクリと、真知寿が深みにズルズルと落ちていく過程で、観客の反応は大きく分かれる。僕のような一度でも芸術とか言い出した経験がある奴は、重苦しいリアリティと純粋な楽しさを感じるはずだ。僕は『人間の極限状態から生まれる創造性』云々に至るところで完全にノックアウトされた。このズルズルな過程が、甘い青春時代でも、自意識過剰な中二病時代でも無い。とりあえず今までで、自分が一番自然に生きてたなあと思える時代にそっくりなのだ。誰かに高く評価される才覚も運も無ければ、地道な努力もしない。的に体を向けたまま明後日の方向へ全力疾走しているような、でも何の根拠も無く自分は間違ってないと思えるメチャクチャ自由な感覚だ。それは僕がアキレスではなく亀である証拠でもあった。

あの頃の僕から見れば、今の僕は飛んでいる矢なんだろう。この世の時間は僕に関係なく進むし、間違い無く僕の人生は徐々に減っていっている。それを分かっていても臆病になってしまった僕は、ある一瞬の安全や面子を守ろうとそこに留まっている。