名前のいらない猫

http://www.flickr.com/photos/sakfli/3440636156/in/set-72157615180781588/
実家の猫にはみんな名前が無い。都合上で白と黒の毛並みだから「白黒」、トラ毛だから「トラ」と呼称することはあっても、ちゃんとした名前じゃあない。今いるのは写真の一匹だけなので、実家では彼を指して言う言葉は「猫」になる。

彼は夏目漱石が書いた通り、

吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

夏目漱石 吾輩は猫である

というような猫。彼が彼であると認識できることが重要なので名前が無いのだ。

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人間の最大の集合体が1世帯であった場合、別に名前は無くても困ることは無い。家族がお互いに呼び合うには、お互いの役目を表す呼び方で十分だ。実際に自分の親を名前で呼ぶ人は少ない。ほとんどの人は「お父さん、お母さん」と呼んでいる。これは人間が成長の過程で父は父であり母は母であることを、両親がそれぞれ一人の人間であり固有の名前を持っていることよりも先に認識→定着しているからだ。

野良猫が地域の人々にそれぞれ勝手な名前で呼ばれるのも、本質的には名前が無いのと同じこと。その名前で呼ぶ人間と野良猫にとってその野良猫を指す言葉であれば良いわけで、固有名詞としての名前とは違う。だがしかし、とある野良猫に関わる人みんなが今日からその野良猫をタマと呼ぶことにしても、その猫はタマという役目を持つだけでしかない。なぜなら、人々とその野良猫の間には、名前が付く前に様々な関係が構築されているから。後付の名前というのは、そのものを指す言葉に成るのは難しいのだ。だから子供の頃から付き合う無二の友人はあっても、大人になってから気が置けない友人は簡単に見つからない。

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僕は仕事を辞め社会的な役目から解放された後は、家族と限られた友人のコミュニティにしか存在していない。僕はもちろん僕でしかないのだけど、社会的には何者でもないし、存在していない。僕は僕が好きなものを好きだし、僕が得意なことは得意だけど、社会的に何をする人でもないし、やらなきゃいけないことも無い。僕を何かの役目を通して呼ぶ人はこの世に一人もいないわけだ。これは学生と同じようだけどまるで違う。

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他人から名前を呼ばれるとき、その「□□さん」のほとんどは既に名前を持っている人を呼ぶための都合良さから選ばれた言葉である。その呼びかけはあの人自身ではなく、あの人が持っている(もしくは期待している)役目に向けられたものである。

僕が見てきた勤め人には「○○社の営業の□□さん」として仕事をする人と、「□□さん」として仕事をする人の2タイプがいた。そして僕の目から見てよい仕事をするのは、名前のいらない猫である後者だった。面白いことに、役目を通した名前を必要としない人の方が多くの役目を期待され、多くの人からその人自身を指して名前を呼ばれるようになっていく。