明日、君がいない

舞台はオーストラリアのとある高校。生徒の誰かが自殺するところから映画は始まるが、ここで時間はその日の朝に遡り、物語は誰かの死に向かって描かれることになる。

物語の中心は6人の生徒。カメラは常に誰かの視点を追う形になっており、6人のうち誰かとの接触を切っ掛けに視点がスイッチしていく。更にその合間には彼らのインタビューや過去回想が挿入され、一人ひとりの抱える問題,不安,コンプレックスが少しずつ分かってくる。

最初に死の結末を知らされた観客の最大の興味は『誰が何故死ぬのか』のはず。そこへ「死ぬぜぇ〜、超死ぬぜぇ〜」と訴えてくるティーンエイジャーが何人も出てくるのだから、もう目が離せない。

死は当人の選択であったとしても、残される者にとって突然であることに変わりはない。話を聞いてやることはできなかったのか。気付いてやれることは無かったのか。そういった思いは死の結末の後にしか無いのであって、己の無力をより強く知る契機でしかない。またそれを知ることで、死への絶望感に重ねて自身への絶望感を味わうことになる。

驚くべきは、この映画を作り始めた当時、監督は19歳であったこと。

その若さで一人の人間の死に向かって淡々と物語を描いた監督は、それまでに近しい人の死を目の当たりにし、絶望感と無力感の中でその体験を噛み砕いた事があるのだろうと思う。